ドラッカーの指摘
P・F・ドラッカーは「節税」という言葉についてこう言いました。
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「節税」という言葉は、納税者が保有し続けることを特別に許可されていないものはすべて政府に属するということを暗に意味する。
そして、納税者が手元に残せるのは、政府が、その知恵と雅量によって、個人が持つことを許可する範囲内においてである。
もちろん、これらのことが明示的に行われているのは、共産主義国家だけである。
しかし、アメリカにおいてさえ、納税者が保有し続けることを政府が明示したものを除き、すべての所得は政府に属するということは、とくにケネディの時代において、ワシントンとくに政府官僚の間では、当然の常識だった。
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1993年の著書『ポスト資本主義社会』でドラッカーが言ったことは、私たちの国、日本にも当てはまるのでしょうか?
一昨年導入された「特定同族会社の役員報酬の損金不算入」の制度を思い浮かべるだけでも、ドラッカーの指摘が日本にも当てはまることは明らかでしょう。
赤字決算の会社でも納税の可能性があるという制度(今までも、そうした制度はありましたが、この制度はそれが一般的な法人に広く適用されます)、つまり「会社の内部留保など国は考えてないよ!」と宣言しているような制度ですから、その思考の底流に流れるものは明らかではないでしょうか。
こんな考え方をしてしまうと、働く気が急に失せますが、ドラッカーの指摘は言い過ぎではないでしょう。
むしろ、ドラッカーの指摘を踏まえておかないと大怪我もあり得ます。
私たちは、税金の仕組みを考えるとき、自らの生活感で善し悪しを判断する傾向があります。
しかし、官僚は私たちの生活感や仕事の苦労など頭にはありません。
これは、私が彼らの立場になっても同様です。それは、官僚という仕事以外したことがないのですから仕方がありません。
私はサラリーマン時代、ある政府機関の官僚に、自社が置かれている立場を切々と訴えたことがあります。
その私の訴えに対する、官僚の反応には驚きました。
私の訴えに彼はまったく別のことを話し始めたのです。
それは、彼らの事情であり、都合でした。
20代の私は、この時初めて、コミュニケーションが空振りする事態を経験しました。
しかし、それは彼らが悪いとは言い切れません(今だからわかることですが・・)。
私にも、彼らの根底にある考えがわかっていなかったのです。
だから、私はバカ正直に訴えた・・・。
しかし、そんなものは最初から通じるものではなかったのです。
同様に、私は一年に一回、国税庁の方の話を聞きながら何も言えなくなる気分に襲われます。
なんだか、何を言っても通じない。そういう無力感を感じるのです。
その無力感の根底にあるものを、15年前に読んだドラッカーはすでに教えてくれていました。
そして、そこがわかるからこそ・・・・・・。諦めではなく、そこが大事なのです。